ある日常のお話

日常生活で感じたことをつらつら書き連ねるエッセイ風ブログです。Twitter:@ryusenji_narita

入浴カタルシス

 

朝はやはりシャワーに限る。

 

いつ頃かの冬、寒さに耐えながら、ストーブの前でちまちまと着替えているのがだるくなり、いっそ全身をあたためようと入ったのがきっかけで、そのまま習慣となった。

 

朝、まだ寝惚け眼であるようなうちに、寝汗や痒みなどの、いわば汚れを、お湯で一気に流し去るあの感覚。

 

生を実感させる、あの心地よい感覚。

 

そんな感覚に魅了され、時間に余裕があるときは、すっかりシャワーを浴びてから家を出るようになってしまった。

 

それには、確かにシャワーを浴びることで、顔も髪も一度に洗える、という実務的な理由もあるのだけれど、それよりもシャワーを浴びることに付随する精神的充足が、飽き性の私にこの面倒くさい習慣を続けさせているのだと思う。

 

第一に、私は元々お風呂が好きらしい。

友達と旅行に行っても、大浴場への熱意が他の人とは少し異質だということが分かる。

 

私は、旅館に行ったら、大浴場に少なくとも三回は入る。

このことを言うと驚かれる。

いくら温泉が好きでも、入り過ぎじゃない?と。

 

しかし、この三回には、それぞれ私なりの意味がある。

 

着いてすぐ汗を洗い流すための一回目。

宴もたけなわ、部屋なり、宴会場なりが盛り上がってきた頃の、入浴時間ぎりぎりの二回目。

みんなが疲れて眠りこける中、空元気の有志を連れ、朝日を浴びながら自然を感じる三回目。

 

どれも違う意図があり、どれも違う味がある。

 

肉体的な心地よさを得る一回目。

選択的な疎外感・孤独感に酔いしれる二回目。

自然の力を借りて、肉体も精神も溶け込むように癒される三回目。

 

何も関係ないように、快楽は独立してみえる。

それでも、すべての根底に共通する感覚がある。

 

けだし、入浴は自己との対面時間である。

元来、沐浴は穢れを洗い流すもので、自己を見つめ直す機会を担っていた。

現在も、その本質は変わらない。

 

入浴は生と直結する。

お風呂に入るとき、一糸まとわぬ裸体をさらけ出す。

限りなく無防備に、生がむき出しになる。

 

入浴は自己の存在を明確にする。

肌に当たるお湯は、個と外界との境界を明確にし、個に自らの輪郭を意識させる。

そうして、清廉なお湯に、輪郭にこびりつく汚れが落とされることを意識する。

 

人は入浴中、自らの浄化の過程を肌で感じ、一瞬のうちに瞬く快楽の灯火を、余すところなく享受する。

お湯で柔らかにしなった裸体で、生を享受する。

 

そうして、汚れを流した後の身体は、どこか軽くなったように感じる。

これは、物理的な汚れが取り除かれただけではなく、精神的汚れが浄化された結果なのである。

 

 

朝は身体が重い。

寝汗で気持ち悪いし、ダニが張り付いてる気がする。

学校に行きたくない。仕事に行きたくない。

心なしか心も重い。

 

朝はやはりシャワーに限る。

アンドロイド人

 

意識と自我とは別のものに他ならない。

 

「我思う故に我あり」。

デカルトは考える意識をもって自己の存在を確認した。


しかし、意識は自我ではない。断じて。

私こそが自我の欠けた人間であるから。

この書記を書いている私はたしかに意識をもって行動しているだろう。

私は私を考えることができる。

哲学的ゾンビではない。


しかし、私とは何か。

こう問われた時、私は何も答えられない。

もう少し具体的に述べるならば、私は何がしたいのかさっぱり分からない。


自我。自我。自我。自我。ああ、自我。


一体どこにあるのだろう。


やりたい曲もなければ、聴きたい曲もない。入れ込むような熱烈な情熱を注ぐ趣味もない。
好きな女をどうしても手に入れようとする激情もない。
最近は、もう、食べたいものもなくなってきた。

 

欲望が生を象り、彩るのだとしたら、欲望の減退はそのまま死に向かっている。
欲がなければ人間ではない。
生を欲するものが人間だとすれば。
人間を人間たらしめているのは欲望に他ならない。

 

私は、ずぅっと周りに合わせて生きてきた。
真の賢人は周囲と軋轢を生まないことが後の利益になると理解しているはずだ、と固く信じ続け、この真理を意識している私は真の賢人なのだと自惚れてきた。
選曲をまかせ、旅先もまかせ、席もまかせ、進路もまかせた。
自らがやりたいことなどしない方が世の中うまくいく。
そう、思い込み、芽吹き始める自我を押さえ込んで生きてきた。

 

たしかに、人望は得た。

人望?
そんな美しいものではない。

 

周りに合わせた結果、私は都合のいい1ピースに過ぎなくなっていた。

 

なくなったら完成しない。
色付きのピースだ。
決して真ん中の方にはない。
なかったら気付く人もいるだろう。

 

しかし、あっても存在を放つことはないし、存在をこわれるような重要なピースではない。
雰囲気を維持するため、主要なピースが幸せを感じるためだけに、わざわざ余分に作られたピース。
それが、それこそが私なのである。

 

色が綺麗ならそれでいい。
私がどんな材質でできていようが、構わない。
私が単体で何を表す部分なのかは全く気にならない。

 

ただ、洋館の、光さす一部屋の、椅子に座る、幼き少女の、ドレスの裾の、ボタンのヘリを表しているピースが、周りができあがってから消去法でうめられればそれでみんな満足だ。

 

私がいないことを嘆く人はいる。
それは幸せなことかもしれない。
少なくとも私はくずかごには行かずにすんでいる。
一度使われたら、飽きられ廃棄されるティッシュペーよりかはマシかもしれない。

 

でも、私がいて、嬉しい人はいない。ほとんど。
周りの数ピースは喜んでくれる。
私が埋まったことで、自分が輝けるから。

 

これが私の人生である。

 

自我は意識に包まれ、意識は皮膚でコーティングされ、人は存在する。

 

皮膚のすぐ下に意識はある。
精神はある。皮膚のすぐ下に。

思考する機械。精神=意識=思考。

 

骨がなければ立てない。人間にはなれない。どうしてもなれない。
自我は、自我こそが人間味を与えるのである。

 

私は私という意識をもったハリボテで、どうやら人間味というものを胎内へ置いて生まれてきてしまったようだ。
生まれた時から、私は死んでいた。

 

私は私だと認識できる。
しかし、私は自我を持たない。

 

アンドロイドのようだ。

 

まだ、アンドロイドの方が救いがある。
奴らは意識がない。悩まなくてすむ。

 

我らアンドロイド人は悩む。悩みの種も分からず、悩む。自我もなく、悩む。
答えはハナからない。やりたいことがないのだから。解決などしようがない。

 

あるのは、承認欲求のみ。
周りに合わせて生きていく。自我もなく、生きていく。さながら、人の形をした社会のように、流れに流され、生きていく。

 

我らアンドロイド人は、空っぽの胸に虚しさを詰め込んで、晴れぬ寂しさに気づきもせずに、笑って、笑って、笑って、笑って、譲って、譲って、心を殴って、他人の生を、生きていく。

ポーカーフェイス社会

 

人の表情というものは実に感情をよく表すものだとされる。

それ故に、ポーカーフェイスは感情を表に出さない表情という定義から無表情と捉えられることが多い。

しかし、無表情は時に無関心を表すし、放心を表したりもする。

決して無感情の表情などではない。

 

私はポーカーフェイスが得意だ。

そんなこと周りの誰も信じないだろうけど、とにかく私はポーカーフェイスが得意だ。

いつも笑っているね、と言われる。

無表情でいることは少ない。

それでも私はポーカーフェイスが得意だと言い切ろう。

私の中のポーカーフェイスは、感情を表に出さないこと。

決して目の前に現れている表情が感情そのものだと思ってはいけない。

表情と心情の間には乖離が存在することを忘れてはいけない。

現実は巧妙なポーカーフェイスの横行に過ぎない。

それが辞書の定義により隠されて我々の前に提示され、奇妙なポーカーフェイス錯誤が、リアルのポーカーフェイス社会を潤滑に動かし得ている。

さあ、ここで君に問おう。

君の目の前で笑っているあの娘は、本当に心から笑っているだろうか?

君はその彼女を見て微笑むが、果たしてその笑みは幸せか?

帰途

 

電車に乗っている。

独特のリズムで揺れる車内を見渡すと色々な人がいることに気づく。

隣の女子大生にもたれかかり、死んだように眠りこくるサラリーマン。

目の前の席が空いているのに、初デートなのかお互いにいいとこを見せようと頑なに座ろうとしない、初々しさの残るカップル。

周りの雑音も気にせず、ひたすらに単語帳と向き合う、エナメルバッグを肩から下げた受験生。

最近ではほとんどの人がスマートホンをいじっている。

ふと、思うことがある。

僕は彼らのことは何も知らないし、彼らも僕のことを何も知らない。

でも、そこには確かに共に過ごす時間が存在して、その時間は確実に各々の人生の一部となっている。

ということは、僕がこうして車内で独特のリズムに揺られながらブログを書いているこの時間も、目の前で眠り込んでいるサラリーマンの人生の一部だということになる。

それって何だか、とても不思議なことだ。

何か直接影響を与え合うわけではない。

ただ、偶然に居合わせただけである。

きっとこの先関わりあうことはないのだろう。

それでも、彼らが僕に様々な印象を与えたことは変わらないし、その印象は僕の中でずっと生き続ける。

反対に、僕の知らないどこかで彼らはそれぞれの物語を紡ぎ続け、その中で印象としての僕もまた生き続けているのだろう。

こんなことを考えながら、あのカップルに目を向ける。

僕には全く関係ない彼らだけど、見ていてもあまり面白くもない彼らだけど、彼らが楽しそうにしているあの時間は、確かに僕に仄暗い感情を残している。

確かに僕の人生の一部を形成している。

そうして、彼らは僕の一個前の駅で降りる。

これから僕が直接彼らと出会うことは、恐らくないのだろう。

それでも、電車を降りると、僕の脳裏には彼らが幸せそうに微笑み合う光景が浮かぶ。

僕にはまだ彼女がいないけれど、いずれ彼らのようにカップルになれるかもしれない。

その相手はきっと運命の人だ。

運命の人ってよく言うけど、いったい、どうやって決まっているのだろう。

運命なんて偶然じゃないか?

偶然同じコミュニティにいて、偶然意気投合して、偶然タイミングがあった、ただそれだけだ。

また、ふと考える。

僕とあのカップルが会ったのは偶然だ。

あのカップルが出逢ったのもまた偶然だ。

同じ偶然なのに、僕は何故、さっきまで目の前で彼に微笑みかけていたあの娘と、偶然出逢って、偶然意気投合して、偶然タイミングがあうなんてことがなかったんだろう。

何で僕は偶然彼らを傍観する立場にいたのだろう。

もしかしたら、偶然先に僕が彼女と出逢っていたら、世界で一番気があったかもしれないのに。

もしかしたら、彼女が運命の相手だったかもしれないのに。

こんなことを考えていると、分からなくなる。

世の中のカップルはどうやってお互いを運命の相手だと判断したんだろう。

もしかしたら、機会がないだけで、最高のパートナーは、別の物語を紡いで出逢いを待ち続けているかもしれないのに。

もしかしたら、その人は駅の構内ですぐ隣をすれ違っているかもしれないのに。

本当は分かっている。

こんなことばかり考えているからダメなんだと。

あらゆる可能性は等しく概念に過ぎず、現実を生きる僕らは、与えられた選択肢から選び続けるしかないんだと。

あの二人はそうした現実を生き抜いて、幸福を手にしているんだと。

1人寂しく帰途につく僕の中で、彼らは2人で手を繋いで仲睦まじく同じ方向へ向かって歩き続けていく。

 

 

・・・などと、色々考えてきたけれど、実はあのカップルは僕の中で生き続けてなんかいない。

そもそも、僕の目の前にカップルなんていない。

全部僕の妄想だ。

確かに、電車には乗っていたけれど、車内はスカスカだったし、目の前にはサラリーマンのおじさんが他に誰もいない座席で、脚を広げて寝ているだけ。

それでも、何かに触発されて僕がこのブログを書いたことは事実だし、種明かしをするまではあのカップルは確かに僕の中に存在していた。

確かに僕の中に生きていた。

こうしているうちに、もう家の前に着いた。

偶然これを読んでいる無数の「僕」の中に、彼らが生き続け、それと共に彼らを生み出した僕の存在が生き続けることを夢に見て、今日はもう眠りにつこう。

 

早起き

 

私は早起きが苦手だ。 

何もない日なら夜は3時くらいまでYouTubeまとめサイトを漁るし、その所為で起床は平気で10時をすぎてしまう。

昔から寝るのがなんか時間を無駄にしているような感覚がして、不安になり、つい夜更かしをしてしまう、完全な夜型の人間だった。

そんな私でも早起きに憧れていないわけではない。

朝早く起きることができた時のあのボーナス感は流石に嬉しい。

そういう日は心なしか体もシャキッとしてきて、柄にもなくランニングに出かけたり、お洒落な喫茶店でコーヒーを嗜みながら本を読んでみたりしたくなる。

どことなく心に優雅な生活を求める余裕が生まれてくる。

でも、実際には、「あ、まだ時間に余裕があるな」なんて考えながらYouTubeまとめサイトを漁っているうちに気づいたらもう10時、いつもと変わらない、なんてこともザラだ。

あの生産性のない無為な時間も意外と好きなのだけれど、何か惜しいことをしたような罪悪感めいたものが残ってしまう。

今日は久しぶりに早起きをすることができた。

というのも、実は昨日、友人の家に泊まり徹夜で話し込んでいたら、帰宅後に長い昼寝をとってしまって夜の睡眠がそんなに必要なかったからである。

徹夜の最中、お腹が空いてしまったので朝4時頃に友人と近くのコンビニに出かけた。

重い体に鞭打ち、エレベーターで1階におりて、眠い目をこすりながらマンションの自動ドアを抜けると、台風一過の清々しい青空が上空に広がっていた。

災害レベルだという猛暑も流石に朝の4時には猛威を振るわないらしく、夏とは思えないほど風の涼しい心地よい天気だった。

肺一杯に大きく息を吸い込む。

冷気が体に染み込む気がする。

空気は都会とは思えないほど澄んでいて、心なしか自然のいい匂いがした。

友人たちはそんな私をさして気にとめることなく先へ進む。

ほんの一瞬だけ私が社会から切り離されて、自然と一体化したような気がした。

寝ぼけ眼で妙にテンションの高い友人たちに追いつくため、私は人間に戻り、少し軽くなった体を走らせた。

そんな昨日の朝が忘れられず、今日の朝5時半に目覚めた体はいつもとは違い、もう6時には準備を終えて走り出していた。

天気は昨日ほどは涼しくなく、太陽も雲に覆われて姿を隠していたが、体はこれから始まる優雅な1日に胸を躍らせ、かえって昨日よりも一層浮き足立っていた。

初めまして、竜泉寺成田です。

夜が明けるのが日に日に早くなり、今までは夜更かしで済んでいたような時間はとうに朝になってしまいました。

どうも、こんばんは。
竜泉寺成田です。

日常の些細な出来事をどこかエッセイのように気ままに綴ろうと思い立ち、早朝の微睡みの中でいきおい当ブログを立ち上げてしまった次第です。

読み苦しい文章が多々ございますが、ふらと立ち寄ってくださった読者の皆様も徒然なるままに流し読みして楽しんでいただけるよう精進いたしますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

さあさあ、夜も間もなく明けてしまいますから、今宵ははここまで。

楽しんでいただけると幸いです。