ある日常のお話

日常生活で感じたことをつらつら書き連ねるエッセイ風ブログです。Twitter:@ryusenji_narita

適応と恭順

 

「住めば都」というよく知られたことわざがある。

 

これは「どんなに辺鄙なところでも住んでいればいずれ都のように住み心地が良くなる」という意味だ。

 

転じて今は「どんなにいやな環境でも長く居続ければ次第に慣れて気にならなくなる」という程度の意味で使われることが多い。

 

これは人間の性質をよく表している。

 

そもそも、人間に限らずとも生物はすべて、厳しい生存環境を生き抜くために、自らを環境に適応させる能力を有している。

 

そして環境に適応できなくなった生物は、自然と淘汰されていき、世界からその姿を消していく。

 

生き残った生物も、再び変化しゆく自然に適応し、適応し得ないものは敗者としてこの世を去る。

 

その後も生き残った生物の間で際限なくセレクションは続き、全ての生物が死滅しうるまで、その連鎖は終わることはない。

 

この適応能力の有無における淘汰の流れは、生物全体の営みの縮図とも言える人間社会においても変わることはないのである。

 

子は基本生まれ落ちた瞬間、家庭という小集団に属することになる。

 

成長すると、保育園や幼稚園という新たな集団への所属が決まり、突如家庭とは全く持って異質な環境下に晒されることとなる。

 

そこでは、友人関係という小社会への参入が半ば義務付けられており、子供は慣れない環境で公共性を身につけ、未知の社会を生き抜いていく。

 

その後、成長するにつれて、小学校・中学校・高校・大学や専門学校と環境を改めながら、その度に新たな環境に適応し、自らの属する社会の中で生き抜く術を学ぶ。

 

そうして、学校という準備施設において適応のノウハウを学んだ子供は、最終的に社会に旅立ち、荒波を生き抜く大人になるのである。

 

しかし、時にこうした一連の流れから零れ落ちるものがいる。

 

それは、学校という閉鎖社会において特に顕著に見られる。

 

学校の定めたルールに束縛されることを厭い、不良行為に走る者たち。

 

教室という閉鎖空間において絶対的な法規となるスクールカーストに集団で飲まれることから発生したいじめ行為により、登校不可となり、家に引きこもる者たち。

 

大学という自由空間において、放任に耐えきれず、誘惑に負けて単位を落とし、学校を去っていく者たち。

 

けれども、そんな彼らも、例えば暴走族や2ちゃんねる、バイト先などの新たな環境に適応しながら、日々生き抜いているということは変わらない。

 

人間はどれだけ逃れようとも、結局、どこかで誰かと繋がってしまうものだ。

 

我々は、そこで新たに生まれる環境に絶えず適応しながら、生からのドロップアウトを避け続ける他ないのである。

 

ただし、気をつけるべきことがある。

 

過酷な現代社会を生き抜く上で、適応は確かに大切だ。

 

しかし、周囲も環境に合わせるということは果たしてそのまま適応となるのか。

 

例えば、インディーズ・バンドを考える。

 

君は1980年代のジャパニーズ・パンクロックのような熱いライブをやりたいと思い、ある音楽レーベルに入る。

 

そのレーベルは、オールジャンルを謳っており、君は自分のやりたい音楽をできることに安堵する。

 

すると、マネージャーの尽力で所属レーベル内の複数のバンドで行う対バン形式のライブへの出演オファーをもらう。

 

自分の好きを追求し、納得のいくまで何度も練習を繰り返す。

 

いざ、ライブが始まると、流れてくる音楽は洋楽、それもフュージョンやジャズのインスト曲ばかり。

 

君は磨きに磨きをかけたパンクロックを披露するも、いまいち盛り上がらない。

 

ライブ後、肩を落とす君に、事務所社長が声をかける。

 

「君、熱唱するのはいいんだけど、動きが多すぎるんだよね。いい声はしてると思うから、もっと落ち着いた曲やりなよ。最近は洋楽っぽいおしゃれなやつが流行りだから。そっちのが受けいいと思うよ。」

 

それ以降、君がパンクロックを封印し、流行りに乗り、まとまりがよくキャッチーなポップスばかり出すようになるとしたら、これは適応と呼べるか。

 

こんなもの断じて適応ではない。

 

そんな信念の欠如した選択が適応だなんてあまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。

 

これは適応などではなく、甘ったれた恭順に過ぎない。

 

信念を捨て、周囲のルールや世間の流れに盲目的に従うだけの、中身の空っぽな移ろいに過ぎない、恭順。

 

適応と恭順。

 

境目を見分けることは容易ではない。

 

我々はどこまでが成長の糧となりうるか、どこまで他人を取り込んでもいいのか、常に考え続ける必要がある。

 

確かに、他人の意見に従えば、責任は自らの元を離れていく。

 

確かに、周囲に媚び諂えば、容易に賞賛を得られるだろう。

 

その甘美な魅力にあてられて、少し心を許すと、気づいた時には恭順に堕していることも度々である。

 

しかし、ドーピングの効力はそう長くは持たない。

 

綺麗なバラには必ず棘があり、聖人君子には必ず裏があり、覚醒剤には必ず副作用がある。

 

我々は、気をつけなければならない。

 

我々は、努力しなければならない。

 

シビアなこの現代社会の渦に飲み込まれ、藻屑となり消え果てぬよう、適応し続けようと。

 

そんな中でも自分を保つことを忘れず、恭順に堕さぬよう、常に自分を顧み続けようと。

自己犠牲と書いて何と読む

 

働くのが好きだ。

 

なんていうと、星野源の「働く男」かと思ってしまうけども、働くと言っても仕事をするという意味ではない。

 

僕が好きなのは、例えば、飲み会とかでみんなが呑んだくれている時に、あえて自分はセーブして、ゴミを片付けたり、会計をしたり、酔いつぶれた友人を介抱したり、、、そういう働き方だ。

自分がやる必要はない。

 

でも、誰かがやらなければならない。

 

そんな時に、率先して面倒ごとを引き受けるのが一番気持ちがいい。

 

気づいてもらわなくたっていい。

 

誰かが見てくれて、評価してくれているかも知れない。

 

その事実だけで承認欲求を満たせるし、もし本当に誰かが気づいてくれていたのなら、その時には上がった好感度を大事に胸に抱えて、毎日を楽しい気持ちで過ごせるものだ。

 

どうやら自己犠牲とは自己満足のことらしい。

 

みんなが面倒臭がってやらないことをする。

 

それだけでいい。特別なことはいらない。

 

みんなが楽しんでいる空間が目の前に広がっている中、あえてそこから一歩身を引いてみる。

 

同じ集団にいるはずなのに、なんだかすごく孤独な気がする。

 

仲間が正気を失ってゆくのに逆らって、自分は正気を取り戻す。

 

そうして、冷静に、周りを見渡す。

 

床に中身の入った缶チューハイがあるなあ。

 

あ、あそこのテーブルの角にあるからあげ、もう冷えちゃって誰も食べなさそうだ。

 

え、なおきとゆりかちゃん、2人で額を合わせながら見つめ合ってるよ、、、。

 

実は付き合ってたりして。

 

、、、こんな風に、少し冷静になって周りを見渡すだけで、今まで気づかなかったことが沢山浮かび上がってくる。

 

気づかなくていいことが浮かび上がることも度々だけど。

 

飲み会なんかは顕著で、というのもやっぱりみんな酒に酔うと素直になるみたいで、結構その人の素の部分が見られることが多い。

 

無防備になる人が本当に多い。

 

そういう時に自分まで正気を失うのってなんだかもったいない気がする。

 

せっかく普段着飾っているような人たちまで、警戒心を解いて、弱みを見せちゃったりなんかしちゃったりしているんだから、ぜひ見届けたい!って思うのは意地が悪いですかね?

 

まあ、僕はそんな感じで、いつも周りの熱狂を遮っては、1人異世界へと迷いんこんでしまった主人公気取りの自分に酔いながら、人間観察なんていう口に出すと小っ恥ずかしい行為を、人知れず行なっているのである。

 

しかし、考えれば考えるほど、あの孤独感の持つ奇妙な高揚感・清涼感が、とても不思議に、そしてもの悲しく思えてくる。

 

それは、きっと、所属の矛盾から生まれるものなのだと思う。

 

肉体は社会的にその集団に属しているのに、精神は集団の外から俯瞰を決め込んでいる。

 

それはある種達観した行動で、いわゆる「大人」な行動だから、やっている自分はどこか優越感に浸り、快楽を手にする。

 

でも、それは同時に、自分が所属しなければならない集団に所属しきれていないという、いわゆる「子供」な反抗でもあり、そんな自分の不甲斐なさを痛感させる。

 

そして、本人は自らを省み、自分は集団という社会に不適合な人間なのではないかという苦悩にさらされるのである。

 

この両義性が心地よく、エキサイティングで、でも、どこか切なさを感じさせるあの孤独感の正体なんだろう。

 

、、、なんてかたいこと書いても仕方ないか。

 

もう少しやわらくしないと、誰にも伝わんない、ただのオナニーで終わっちまうぜ。

 

色々くどくど書いては見たけど、結局俺は話すのが苦手だってこと。

 

つまらないプライドも捨てられずに、「やだ、つまらない男ね」って思われるのが怖くて、ただ黙りこくって、縮こまるだけで何もしない。

 

そのくせに一丁前に得意な話を振ってもらえるのを待っていやがる。

 

そんな逃げ腰のチキンに誰かが構ってくれるはずもなく、居場所を失った負け犬は、免罪符としての雑用にしがみつく。

 

ただ、それだけのことだ。そうだろ?

 

こうやって、何でもかんでも理屈付けて、臭いものに蓋をしながら、自分を正当化するの、そろそろやめたほうがいいぜ?

 

まあ、それが気持ちいいっていうドMにはお似合いかもな。

 

自己犠牲はただのオナニーなんだから。

幸せはそこにある

 

今日はついてない日だった。

 

帰省から帰ってきたんだけれど、まあ、まず寂しい。

それだけでも憂鬱なのに、駅に着いて新幹線の切符を買おうと思ったら、大行列。

自由席を買って乗車するも、台風で遅延。

おまけにスマホの充電は切れるし、挙句充電器を家に忘れる始末。

かと思ったら、大宮駅に到着後、川越線が運転見合わせで、バスに乗ることに。

駅員さんに西口4って教えてもらったけれど、分からん。

バスはいずこ。ウェアイズアバス。

試しに外に出てみたら、帰宅難民で溢れている。

タクシーもバスも大行列じゃないか。

スマホもないから、何線が動いてるかもわからないし。

暇そうにしていた駅員さんに聞こうとしたら、先越されて、待ってる間にどんどん抜かされるし。

いや、さっきまで聞くそぶりもなかったじゃん!

もっと早く聞いとけよ!

これこそ「俺が先」だよ!

結局、追加料金を払って池袋まで行って、折り返して普通に帰ることになってしまった。

折角川越行きの乗車券を買ったのに。

うーん、悔しい。

まあ、仕方ない。たった800円ぽっちくれてやれ。

割り切って新宿行きの埼京線に乗ると各駅だった。

星野源のエッセイも読みたいところだし、これはまあいいだろう。

池袋まで長いなあ。

ほぼ終点じゃないか。

池袋で降りれば東上線一本で帰れるなあ。

でも、米澤穂信先生のサイン本が新宿の紀伊国屋書店に入荷されたばかりだということを思い出し、どうせ一駅だから、と新宿まで足を運ぶ。

しかし、道がわからない。

ああ、まず、公衆電話で家の人に電話しないと。

電話ボックスどこだろう。

駅員さんに聞こう。

改札はどこだ?

うーん、結構遠いけど仕方ない。

改札まで5分ほど歩き、駅員さんに公衆電話の場所を聞く。

「公衆電話ですか。駅の中にはあるんですけど、外だと高島屋の方ですね。」

反対じゃないか。

もうやだ。何これ。

肩を落として公衆電話に行く。

用を済ませ、看板に従っていざ紀伊国屋書店へ。

ビルの中にあるらしいけど、、、

ん?紀伊国屋シアター?

シアター?

7F?

なんか違くない?

ハンズの入り口を自動ドアの内側で守る警備員さんに一応話を聞こうとすると、ドアには閉店の文字が。

閉店?

え、じゃあ、紀伊国屋もやってなくない?

シアターってあるし無理かなあ、とか思ってたけど、どのみち無理じゃない?

しかし、諦めたくはない。

折角新宿まで来たんだ。

何か来た意味を残していきたい。

もう一度地図を見る。

ああ、なんだ、本店は別のとこにあるじゃない。

よし、今度こそ。

、、、待てよ。

今何時だ?

時計を見ると21:20だった。

果たして紀伊国屋書店開いてるのか?

調べるか。

あああ!!スマホの充電なかった!!!

くそ!!ついてない!!

ええい、もう行ってしまえ。

だって、天下の新宿だよ?

よく知らないけど、繁華街なんでしょ?

本屋でも22:00くらいまでならやってるに違いない!

そう思い込んで、少し早足、鼻歌交じりで紀伊国屋書店に向かった。

道を間違えないように確認しながら、目印のビックロを過ぎ、信号待ちをしながら交差点越しにいよいよご対面。

よし、2Fか。

電気はついてるな。

ええと、どこから入るんだろうか、、、

ん?外のエスカレーター封鎖されてる?

なんか張り紙貼ってない?

いやいやいや、きっと同じビルの別の店だよね。

薬局とかカルチャースクールとか美容院とかさ、よくわかんないけど、そんな感じの入り口なんだよねきっと。

紀伊国屋が閉まってるわけないし。

新宿だし。

電気ついてるし。

あれ?1F暗くない?

1Fも書店っぽくない?

信号が青になった。

小走りで張り紙に向かう。

張り紙には、閉店の2文字。

 

ええ、、、

 

ええ、、、

 

人間ショックを受けるととりあえず鼻歌は止まるらしいです。

ただただ徒労につぐ徒労を重ね、散々時間を無駄にした僕ですが、まだ諦めませんでした。

そう、隣にはブックオフがある!

せめて、ブックオフであの星野源に影響を与えた松尾スズキ先生のエッセイを手に入れてやる!

もう心身ともにヘトヘトの僕を、何か爪痕を残そうとする意思が突き動かす。

ついに、店内に入ろうとしたその時目に飛び込んで来たのは、臨時休業の4文字。

完全敗北。

台風おそるべし。おそるべし台風。

台風に弄ばれるだけの1日でした。

こんな日は、黒髪ショートで、ノースリーブの黒いワンピースに、赤いハイヒールを履いた、色白の目がぱっちりした美人との運命的な出会いでもないと割に合わない!

すれ違いざまに転んだ彼女が手に持ってたコーヒーを手放して、溢れたコーヒーが僕のジーンズにかかり、慌てふためいている彼女を笑顔で許して、弁償するといって聞かない彼女を宥めながら、なんやかんや連絡先を交換して、、、

なんて、アホなことを考えていましたが、結局何かあるはずもなく、ただおじさんの隣で星野源のエッセイを読んで日常に戻ったとさ。

ほんとついていない日だったなあ。

 

いや、まあ、悪いことばかりではなかったよ?

新幹線の切符買う間東海オンエアのキーワード探して応募できたし、自由席は座れたし、なんなら埼京線ですら座れたし、お陰でエッセイ読破できてめちゃくちゃ充実した刺激もらったし。

ああ、あと、新宿駅の夜風が、夏の湿った匂いを過ぎて乾いた秋風になっていたのを肌で感じられて凄く気持ちよかったなあ。

 

あれ?

思いのほか楽しいこと多くない?

 

なんか、今日一日ついてないことが多かった気がしたけれど、不運から生まれる幸運もあるらしい。

悪い出来事は印象に残りやすい。

心地よい出来事は忘れやすい。

日常には心地よい瞬間って沢山あって、でもそれって肉体的な記憶だから意外と長く保てない。

でも、悪い出来事は精神に傷をつけて、深く長く自己にこびりつく。

だから、人は悪いことばかり思い出す。

でも、忘れないようにしたい。

日常には、心地よい瞬間が沢山あること。

それは本当一瞬で気付きにくいということ。

逆境の中でも、人はきっと、何か楽しみを見出して、生きている実感を明るく彩ることができるように作られている、ということ。

辛い時こそ、目の前に現れた幸せの断片に気づけるようになりたい。

痛みに耐えながら、必死に、断片をかき集め、最後には「ああ、あの時はバカだったなあ」って笑っていたい。

きっと、断片が揃っていることには気づかない。

その笑いが断片でできているのだとは気づかない。

だが、それでいい。

幸せとは気づかないものなのだから。

そこにある日常こそが、幸せなのだから。

 

 

最後は、真面目にしめましたが、今日はちょっと変わったテイストで書いてみました。

ガッツリ星野源さんの影響です(笑)

この先も様々な工夫を凝らしていきたいと思います。

、、、なんて「あとがき」めいたことを書こうかとも思いましたが、気持ち悪いですね。

(笑)とか特に。

もう眠いしいいや。

今宵(いや、もう今朝か)はここまで。

入浴カタルシス

 

朝はやはりシャワーに限る。

 

いつ頃かの冬、寒さに耐えながら、ストーブの前でちまちまと着替えているのがだるくなり、いっそ全身をあたためようと入ったのがきっかけで、そのまま習慣となった。

 

朝、まだ寝惚け眼であるようなうちに、寝汗や痒みなどの、いわば汚れを、お湯で一気に流し去るあの感覚。

 

生を実感させる、あの心地よい感覚。

 

そんな感覚に魅了され、時間に余裕があるときは、すっかりシャワーを浴びてから家を出るようになってしまった。

 

それには、確かにシャワーを浴びることで、顔も髪も一度に洗える、という実務的な理由もあるのだけれど、それよりもシャワーを浴びることに付随する精神的充足が、飽き性の私にこの面倒くさい習慣を続けさせているのだと思う。

 

第一に、私は元々お風呂が好きらしい。

友達と旅行に行っても、大浴場への熱意が他の人とは少し異質だということが分かる。

 

私は、旅館に行ったら、大浴場に少なくとも三回は入る。

このことを言うと驚かれる。

いくら温泉が好きでも、入り過ぎじゃない?と。

 

しかし、この三回には、それぞれ私なりの意味がある。

 

着いてすぐ汗を洗い流すための一回目。

宴もたけなわ、部屋なり、宴会場なりが盛り上がってきた頃の、入浴時間ぎりぎりの二回目。

みんなが疲れて眠りこける中、空元気の有志を連れ、朝日を浴びながら自然を感じる三回目。

 

どれも違う意図があり、どれも違う味がある。

 

肉体的な心地よさを得る一回目。

選択的な疎外感・孤独感に酔いしれる二回目。

自然の力を借りて、肉体も精神も溶け込むように癒される三回目。

 

何も関係ないように、快楽は独立してみえる。

それでも、すべての根底に共通する感覚がある。

 

けだし、入浴は自己との対面時間である。

元来、沐浴は穢れを洗い流すもので、自己を見つめ直す機会を担っていた。

現在も、その本質は変わらない。

 

入浴は生と直結する。

お風呂に入るとき、一糸まとわぬ裸体をさらけ出す。

限りなく無防備に、生がむき出しになる。

 

入浴は自己の存在を明確にする。

肌に当たるお湯は、個と外界との境界を明確にし、個に自らの輪郭を意識させる。

そうして、清廉なお湯に、輪郭にこびりつく汚れが落とされることを意識する。

 

人は入浴中、自らの浄化の過程を肌で感じ、一瞬のうちに瞬く快楽の灯火を、余すところなく享受する。

お湯で柔らかにしなった裸体で、生を享受する。

 

そうして、汚れを流した後の身体は、どこか軽くなったように感じる。

これは、物理的な汚れが取り除かれただけではなく、精神的汚れが浄化された結果なのである。

 

 

朝は身体が重い。

寝汗で気持ち悪いし、ダニが張り付いてる気がする。

学校に行きたくない。仕事に行きたくない。

心なしか心も重い。

 

朝はやはりシャワーに限る。

アンドロイド人

 

意識と自我とは別のものに他ならない。

 

「我思う故に我あり」。

デカルトは考える意識をもって自己の存在を確認した。


しかし、意識は自我ではない。断じて。

私こそが自我の欠けた人間であるから。

この書記を書いている私はたしかに意識をもって行動しているだろう。

私は私を考えることができる。

哲学的ゾンビではない。


しかし、私とは何か。

こう問われた時、私は何も答えられない。

もう少し具体的に述べるならば、私は何がしたいのかさっぱり分からない。


自我。自我。自我。自我。ああ、自我。


一体どこにあるのだろう。


やりたい曲もなければ、聴きたい曲もない。入れ込むような熱烈な情熱を注ぐ趣味もない。
好きな女をどうしても手に入れようとする激情もない。
最近は、もう、食べたいものもなくなってきた。

 

欲望が生を象り、彩るのだとしたら、欲望の減退はそのまま死に向かっている。
欲がなければ人間ではない。
生を欲するものが人間だとすれば。
人間を人間たらしめているのは欲望に他ならない。

 

私は、ずぅっと周りに合わせて生きてきた。
真の賢人は周囲と軋轢を生まないことが後の利益になると理解しているはずだ、と固く信じ続け、この真理を意識している私は真の賢人なのだと自惚れてきた。
選曲をまかせ、旅先もまかせ、席もまかせ、進路もまかせた。
自らがやりたいことなどしない方が世の中うまくいく。
そう、思い込み、芽吹き始める自我を押さえ込んで生きてきた。

 

たしかに、人望は得た。

人望?
そんな美しいものではない。

 

周りに合わせた結果、私は都合のいい1ピースに過ぎなくなっていた。

 

なくなったら完成しない。
色付きのピースだ。
決して真ん中の方にはない。
なかったら気付く人もいるだろう。

 

しかし、あっても存在を放つことはないし、存在をこわれるような重要なピースではない。
雰囲気を維持するため、主要なピースが幸せを感じるためだけに、わざわざ余分に作られたピース。
それが、それこそが私なのである。

 

色が綺麗ならそれでいい。
私がどんな材質でできていようが、構わない。
私が単体で何を表す部分なのかは全く気にならない。

 

ただ、洋館の、光さす一部屋の、椅子に座る、幼き少女の、ドレスの裾の、ボタンのヘリを表しているピースが、周りができあがってから消去法でうめられればそれでみんな満足だ。

 

私がいないことを嘆く人はいる。
それは幸せなことかもしれない。
少なくとも私はくずかごには行かずにすんでいる。
一度使われたら、飽きられ廃棄されるティッシュペーよりかはマシかもしれない。

 

でも、私がいて、嬉しい人はいない。ほとんど。
周りの数ピースは喜んでくれる。
私が埋まったことで、自分が輝けるから。

 

これが私の人生である。

 

自我は意識に包まれ、意識は皮膚でコーティングされ、人は存在する。

 

皮膚のすぐ下に意識はある。
精神はある。皮膚のすぐ下に。

思考する機械。精神=意識=思考。

 

骨がなければ立てない。人間にはなれない。どうしてもなれない。
自我は、自我こそが人間味を与えるのである。

 

私は私という意識をもったハリボテで、どうやら人間味というものを胎内へ置いて生まれてきてしまったようだ。
生まれた時から、私は死んでいた。

 

私は私だと認識できる。
しかし、私は自我を持たない。

 

アンドロイドのようだ。

 

まだ、アンドロイドの方が救いがある。
奴らは意識がない。悩まなくてすむ。

 

我らアンドロイド人は悩む。悩みの種も分からず、悩む。自我もなく、悩む。
答えはハナからない。やりたいことがないのだから。解決などしようがない。

 

あるのは、承認欲求のみ。
周りに合わせて生きていく。自我もなく、生きていく。さながら、人の形をした社会のように、流れに流され、生きていく。

 

我らアンドロイド人は、空っぽの胸に虚しさを詰め込んで、晴れぬ寂しさに気づきもせずに、笑って、笑って、笑って、笑って、譲って、譲って、心を殴って、他人の生を、生きていく。

ポーカーフェイス社会

 

人の表情というものは実に感情をよく表すものだとされる。

それ故に、ポーカーフェイスは感情を表に出さない表情という定義から無表情と捉えられることが多い。

しかし、無表情は時に無関心を表すし、放心を表したりもする。

決して無感情の表情などではない。

 

私はポーカーフェイスが得意だ。

そんなこと周りの誰も信じないだろうけど、とにかく私はポーカーフェイスが得意だ。

いつも笑っているね、と言われる。

無表情でいることは少ない。

それでも私はポーカーフェイスが得意だと言い切ろう。

私の中のポーカーフェイスは、感情を表に出さないこと。

決して目の前に現れている表情が感情そのものだと思ってはいけない。

表情と心情の間には乖離が存在することを忘れてはいけない。

現実は巧妙なポーカーフェイスの横行に過ぎない。

それが辞書の定義により隠されて我々の前に提示され、奇妙なポーカーフェイス錯誤が、リアルのポーカーフェイス社会を潤滑に動かし得ている。

さあ、ここで君に問おう。

君の目の前で笑っているあの娘は、本当に心から笑っているだろうか?

君はその彼女を見て微笑むが、果たしてその笑みは幸せか?

帰途

 

電車に乗っている。

独特のリズムで揺れる車内を見渡すと色々な人がいることに気づく。

隣の女子大生にもたれかかり、死んだように眠りこくるサラリーマン。

目の前の席が空いているのに、初デートなのかお互いにいいとこを見せようと頑なに座ろうとしない、初々しさの残るカップル。

周りの雑音も気にせず、ひたすらに単語帳と向き合う、エナメルバッグを肩から下げた受験生。

最近ではほとんどの人がスマートホンをいじっている。

ふと、思うことがある。

僕は彼らのことは何も知らないし、彼らも僕のことを何も知らない。

でも、そこには確かに共に過ごす時間が存在して、その時間は確実に各々の人生の一部となっている。

ということは、僕がこうして車内で独特のリズムに揺られながらブログを書いているこの時間も、目の前で眠り込んでいるサラリーマンの人生の一部だということになる。

それって何だか、とても不思議なことだ。

何か直接影響を与え合うわけではない。

ただ、偶然に居合わせただけである。

きっとこの先関わりあうことはないのだろう。

それでも、彼らが僕に様々な印象を与えたことは変わらないし、その印象は僕の中でずっと生き続ける。

反対に、僕の知らないどこかで彼らはそれぞれの物語を紡ぎ続け、その中で印象としての僕もまた生き続けているのだろう。

こんなことを考えながら、あのカップルに目を向ける。

僕には全く関係ない彼らだけど、見ていてもあまり面白くもない彼らだけど、彼らが楽しそうにしているあの時間は、確かに僕に仄暗い感情を残している。

確かに僕の人生の一部を形成している。

そうして、彼らは僕の一個前の駅で降りる。

これから僕が直接彼らと出会うことは、恐らくないのだろう。

それでも、電車を降りると、僕の脳裏には彼らが幸せそうに微笑み合う光景が浮かぶ。

僕にはまだ彼女がいないけれど、いずれ彼らのようにカップルになれるかもしれない。

その相手はきっと運命の人だ。

運命の人ってよく言うけど、いったい、どうやって決まっているのだろう。

運命なんて偶然じゃないか?

偶然同じコミュニティにいて、偶然意気投合して、偶然タイミングがあった、ただそれだけだ。

また、ふと考える。

僕とあのカップルが会ったのは偶然だ。

あのカップルが出逢ったのもまた偶然だ。

同じ偶然なのに、僕は何故、さっきまで目の前で彼に微笑みかけていたあの娘と、偶然出逢って、偶然意気投合して、偶然タイミングがあうなんてことがなかったんだろう。

何で僕は偶然彼らを傍観する立場にいたのだろう。

もしかしたら、偶然先に僕が彼女と出逢っていたら、世界で一番気があったかもしれないのに。

もしかしたら、彼女が運命の相手だったかもしれないのに。

こんなことを考えていると、分からなくなる。

世の中のカップルはどうやってお互いを運命の相手だと判断したんだろう。

もしかしたら、機会がないだけで、最高のパートナーは、別の物語を紡いで出逢いを待ち続けているかもしれないのに。

もしかしたら、その人は駅の構内ですぐ隣をすれ違っているかもしれないのに。

本当は分かっている。

こんなことばかり考えているからダメなんだと。

あらゆる可能性は等しく概念に過ぎず、現実を生きる僕らは、与えられた選択肢から選び続けるしかないんだと。

あの二人はそうした現実を生き抜いて、幸福を手にしているんだと。

1人寂しく帰途につく僕の中で、彼らは2人で手を繋いで仲睦まじく同じ方向へ向かって歩き続けていく。

 

 

・・・などと、色々考えてきたけれど、実はあのカップルは僕の中で生き続けてなんかいない。

そもそも、僕の目の前にカップルなんていない。

全部僕の妄想だ。

確かに、電車には乗っていたけれど、車内はスカスカだったし、目の前にはサラリーマンのおじさんが他に誰もいない座席で、脚を広げて寝ているだけ。

それでも、何かに触発されて僕がこのブログを書いたことは事実だし、種明かしをするまではあのカップルは確かに僕の中に存在していた。

確かに僕の中に生きていた。

こうしているうちに、もう家の前に着いた。

偶然これを読んでいる無数の「僕」の中に、彼らが生き続け、それと共に彼らを生み出した僕の存在が生き続けることを夢に見て、今日はもう眠りにつこう。