ある日常のお話

日常生活で感じたことをつらつら書き連ねるエッセイ風ブログです。Twitter:@ryusenji_narita

街の記憶

 

偶然目白駅を降りた。

今まで一度も降りたことはなかった。

右も左もわからないので、自然、案内板を見る。

 

その日やるべきことはもうすべて終えていた。

どうせ、やることもない。


気分転換にと、池袋駅まで歩くことにした。


すると、どうやら駅の方面に庭園があるらしい。

駅へ向かうついでに、寄ってみようと思い、庭園を目指し歩き始める。

道はすぐに駅前から外れ、住宅街に入っていった。


知らない住宅街を歩くことが好きである。


住宅街には静かに生活の時が流れる。

同じ静けさでもオフィス街のような、冷たく、乾いていて、急かされるような仕事の時ではない。

止まっているかと錯覚してしまうほどゆっくり流れる、ほんのり暖かい、そしてどことなく仄暗い時である。

 

そんな生活の時が心地よくて好きだった。


住宅街を歩きながら、私は、私のものではない日常の中に入り込んでいく。

そうして、日常の中の非日常を貪る時に感じる、あの切ない、ノスタルジックな感傷に浸る。


そんな知らない誰かの生活を、肌身に感じながら歩いていると、いつのまにか目白庭園に着いていた。


入場は無料のようだ。

門をくぐる。


庭園は、切り取られたかのように静まっていた。

まるで、時空を超えたかのような錯覚を覚えながら、顔を上げる。


すぐに右手に美しい池が見えた。

その周りには、池を見守るかのように木々が身を乗り出している。


見渡すと、ポツリポツリ人がいた。

中には外国人もいて、みな思い思いにくつろいでいる。

あまり広くはない園内からすると、少し窮屈だった。


落ち着ける場所もなく池に沿って園内をまわっていると、半周ほどしたところに小さな滝があった。


流水の音が心にすっと沁みていくのを感じる。

都会の喧騒を忘れさせるような滝の流れに、思わずして心を洗われた。


暫く無心に滝を眺めていたが、狭い道にずっと居座り続けるわけにもいかない。

そろそろ、庭園を後にして、池袋駅に向かおう。


もう半周足を運び、門をくぐると、再び全身が都会の空気に包まれる。

すると、不思議と今まで遮断されていた生活音が戻ってくる。


甲高い音がしてきた。

踏切を電車が通過するらしい。

ふと、踏切の方を見やる。


新築だろうか。

右手に白塗りのモダンな家が凛と建っている。

 

その向かいには、昭和の感を残す、ところどころ黒ずんだ外観の赤い屋根の家がひっそりと、それでいて存在感を放ちながら佇んでいた。

 

踏切のはるか向こうには、高層ビルが見える。
無論、後方には庭園がある。

 

街並みは重層的で、一瞬でいくつもの時空が身体を過ぎて行く。

 

視線を落としてみる。

 

踏切のすぐ前には先ほど庭園にいたであろうカップルが、仲睦まじく空の写真を撮っていた。

 

彼らの後ろにはベビーカーを手に握りしめ、踏切の向こう側にいる夫とお兄ちゃんを待っている親子がいる。

 

そのまた彼女らの後ろには、パンパンの買い物袋をカゴに入れて、おばあさんが自転車に乗っていた。

 

遠く後方からから、中学生くらいだろうか、子どもらしき無邪気な声が小さく響いている。

 

重層的な街並みに、重層的な生活がある。

 

一番前のカップルは、いつか結ばれ、子どもを授かり、気づいた時には子育てを終え、お母さんは買い物袋をパンパンにして家で腹を空かせて待ちぼうけている育ち盛りの孫のために、自転車で踏切を越えるのだろう。

 

一つの視界に、いくつもの時間が折り重なって、街となる。

 

建物も、人間も、それぞれに重みの違う歴史をもつ。

 

段階を異とするすべての存在が、各々の歴史を営んで、"今"を織り成している。

 

私は、その日偶然目白駅を降り、偶然目白庭園に惹かれ、偶然足を運んだに過ぎない新参者である。

 

そんな新参者も受け入れながら、街は今、歴史を刻んでいる。

 

偶然も街の記憶に巻き込まれていく。

 

どんなに何気ない瞬間でも、街はあなたを覚えている。